2017/06/09

日本人が知らない世界の日本人、アジア人初のハリウッドスター早川 雪洲を辿る

Actor's life(役者修行の話)
目次

    まだまだアジア人の台頭が難しいハリウッドの映画業界ですが、歴史を辿ればそこには先人たちが残した偉大な足跡がはっきりと刻まれています。今回はおよそ100年ほど前にハリウッドで一躍スターの座に上り詰め、かの有名な観光地「Walk of Fame(ウォークオブフェイム)」にも名を連ねた、知られざる日本人ハリウッドスターについてご紹介いたします。

    Even though it has been tough for Asian actors to become a movie star in Holywood, some of them have succeeded and become famous. I’ll introduce a Japanese actor who appeared in lots of Hollywood films about 100 years ago but wasn’t known in Japan.

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    初の日本人ハリウッドスター!その名は「早川雪州」

     

    早いもので、今年も折り返し地点が刻々と近づきつつあるわけですが、今日はそんな容赦なき時間の猛追を避けながら、少し日系俳優の歴史を遡ってみようと思います。それと言うのも実は本日、6月10日はハリウッドに縁の深いとある日本人の方の誕生日なのです。

     

     

    それがこちらの凛々しい顔立ちをした男性なのですが、おそらくご存じの方はそれほどいらっしゃらないかと思います。しかしながら、この方はかつて日本人で初めてハリウッドで活躍された俳優さんで、なんとあのウォークオブフェイムにも名前が刻まれているそうです。

     

    前置きが長くなりましたが、肝心のお名前は「早川雪州」さんと言います。

     

     

    早川雪州の名は今でこそ日本ではあまり知れ渡っていませんが、こちらハリウッドでは当時雑誌に大きく取り上げられるほど圧倒的な人気を博した存在で、戦時中という厳しい状況下にもかかわらず、アメリカだけでなくイギリスやフランス、ドイツでも多数の映画に出演するなど、国際的に活躍するアジア人俳優の第一人者となりました。

     

    当時は無声映画が隆盛を極めた時代でしたから、今よりも発音などといった言語の壁はなかったとは言え、それでもアジア人に対する人種差別が色濃く残る中で、早川が一躍スターの座を手にする事に成功したきっかけは、その不利な条件を逆手に取った「タイプキャスティング(俳優の固定的なイメージをもとに行われるキャスティング)」でした。

     

    持ち前の美貌を生かして早川が演じた異国的な魅力のある好色な悪役は、戦後に訪れた性的解放の時流に乗って白人女性たちの心を次々と魅了し、マリリン・モンローなどに代表されるような映画業界の「セックスシンボル」としてその名を馳せたのです。

     

    法律で人種を超えた結婚すら禁止されていた当時の風潮が、艶やかな雰囲気を放つ早川の魅力をさらに押し上げていたようです。

     

    閉ざされた海軍への道、光を射したのは米国汽船

     

    最も代表的な出演作には、第二次世界大戦下のミャンマーとタイの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、日本軍の捕虜となったイギリス人兵士たちの視点から極限状態にある人間たちの姿や戦争の悲惨さを描いた「戦場にかける橋」があります。

     

    歴史的大作「アラビアのロレンス」でお馴染みのデビッド・ソーン氏が監督を務めたこの作品は、第30回アカデミー賞にてなんと7部門の受賞を果たしました。惜しくも受賞は逃したものの、早川自身もアカデミー助演男優賞にノミネートされるという素晴らしい快挙を成し遂げています。

     

    そんな俳優として実に輝かしいキャリアを積み重ねていった早川ですが、彼はもともと幼き頃から俳優になる事を志していたわけではなく、学生時代の彼の心を占めていたのは海軍への入隊でした。

     

    厳しい試験を通過するべく英語などの勉学や剣道や華道といったような教養の修練に明け暮れては、実に多忙な日々を過ごしていたようです。思えばこうした幅広い分野にわたる技術の習得が、無意識の内に役者に必要な下地を形成してくれたのかもしれませんね。

     

    そうして弛まぬ努力に身を投じてきた早川でしたが、海軍兵の二次試験を間近に控えたある日、事もあろうか素潜りをした際に鼓膜が破れてしまい、それにより耳が大きく腫れてしまいます。そんな状態で過酷な試験を乗り切れるはずもなく、久しく目標としてきた海軍兵への道を絶たれてしまった早川は、割腹自殺を図るまでに絶望します。

     

    そして、そんな早川を見兼ねた父は彼を寺へと預け入れたのでした。

     

    三年が過ぎた頃、早川の住む地元の沖にアメリカの汽船「ダコタ号」が座礁します。早川も自身の英語の知識をもって通訳として救難活動に参加し、そこで彼は渡米への思いを募らせていきました。ちょっとした運命の悪戯が早川の役者の道への足がかりをつくってくれたようです。

     

    その後サンフランシスコへ働きに出ていた兄の手助けもあり、銀行員としての道を歩ませたいと願う父からのシカゴ大学の卒業という条件のもとで、21歳の時に渡米を果たします。

     

    しかし父の期待とは裏腹に、実際にはシカゴ大学の通信課程に一年だけ籍を置いたのみだったそうです。そして父の死後、早川はロサンゼルスへと移り住みます。

     

    飛び込んだ俳優の世界!素人劇団からハリウッドスターへ

     

    ロサンゼルスで日系人グループの劇団に所属した早川は、日中は苦しい労働で汗を流しながらも、夜は舞台稽古に勤しんだり脚本を書いたりといった充実した日々を送ります。

     

    そんな中、ある日劇団で「タイフーン」というパリに潜入した日本人スパイの破滅を描いた戯曲を披露した事がきっかけとなり、早川の運命はがらりと変わります。

     

    この「タイフーン」はヨーロッパやアメリカで蔓延していた「黄禍論(Yellow Peril)」というアジア人を脅威とみなす人種差別的な思想の影響で当時流行を極めていた作品で、それを実際に日本人が演じてみるという試みが見事に功を奏し、会場には連日多くのアメリカ人が足を運び、公演は大入りとなりました。

     

    その頃、発明王として名高いトーマス・エジソンがニューヨークにて自身で開発した映画技術を独占していた為、それに対抗するかのように西海岸では自由な映画製作が盛んに行われるようになり、これによってハリウッドでは映画が安価な娯楽として急速に栄えていったそうです。

     

    そうした新しい文化が発展していく瞬間を迎える中で、後に早川の妻となったハリウッド女優の青木鶴子に誘われて芝居を観に訪れた映画監督のトーマスが早川の才能に目をつけ、自身の映画製作会社へ彼を招き入れます。そうして早川の映画俳優としてのキャリアが幕を開けました。

     

    最初のヒット作となった「Cheat(チート)」で、早川は白人女性の肩に自身の所有物の証として焼きゴテを押し付けるサディスティックで冷酷な日本人のキャラクターを演じます。

     

    そんな彼の姿は多くの白人女性の心を鷲掴みにし、映画を観に行くにもかかわらず女性らが目一杯めかしこんでいくほど早川の人気は急騰しました。

     

    そうして映画自体は大成功を収めたものの、ナショナリズムの気運が高まっていた時代に彼の演じた役柄が最終的に白人に制裁を加えられてしまう「好色で残虐な日本人」は祖国で多くの反感を買い、「売国奴」というレッテルまで貼られてしまいます。

     

    しかし早川が雑誌の取材で述べていますが、彼自身もこの作品を通じて日本人像が誤解されてしまう事を懸念していたようです。

     

    そうは言えどハリウッドにおける人気は止まる処を知らず、戦争によってしばしば役者活動の休止を余儀なくされながらも、次々にハリウッド映画の大作の数々に出演を果たした早川は、「悲劇のハヤカワ」として喜劇王のチャップリンと肩を並べるまでになりました。

     

    そしてハリウッドスターとしての地位を確固たるものとした早川は「グレンギャリ城」と呼ばれる大豪邸を建設しては、日米の親善の場として活用したり、文化人を支援する足場としたりいていたそうです。

     

    かくしてスターへと上り詰めた早川でしたが、演じる役柄はいつも日本人かつ悪役であった為、そうした待遇にいささか不満を感じていました。彼自身はいつかヒーローを演じてみたいと願っていたようです。

     

    そうした反骨精神に支えられて、彼は「ハワードピクチャーズコーポレーション」という自身の映画会社を設立しました。わずか4年間で22作品もの作品を撮影するほど経営は順調な滑り出しでしたが、アジア人の成功を快く思わないアメリカ人も多く周辺に不穏な動きを感じ始めた早川は、已むを得ず即座に会社をたたみ、日本へと帰国します。

     

    しかし歓迎と共に早川を批判する声も多く、疲弊した早川は再びアメリカへ戻り、その後撮影の為にフランスへと旅立ちます。そして1973年に肺炎でこの世を去るまで、映画業界を牽引し続けました。

     

    ずらりと並ぶ栄光の星々、そこに確かに腰を据える早川

     

    そんなわけで、せっかくですので実際にウォークオブフェイムへ赴き、早川さんの名前が刻まれた輝かしい栄光の証を拝んでまいりました。

     

     

    早川さんの星は、Hollywood & Vine(ハリウッド&ヴァイン)駅を出てすぐ左に進むと曲がり角に「Katsuya」という日本食レストランがあるのですが、その表通り沿いにあります。ヴァイン通りを挟んだ向かい側にはお洒落なスタバがあり、位置としては非常に見つけやすいです。

     

    ハリウッドにずらりと煌めく星々の中に、日本人の名前があるなんて本当に誇り高いです。途方もない夢ですが、私もいつか星をいただけるくらい影響力のある役者になるくらいの気持ちで日々精進していきたいと思います。

     

    今や総計2,600以上にも及ぶウォークオブフェイムの星々ですが、残念ながら日本人のものは数少ないのが現状です。現在は早川さんの他にコマ岩松さんや三船敏郎さん、そしてなんとゴジラがラインナップに加えられています。彼らについてはそれぞれの星々の写真と共に、また次回の記事でご紹介しようと思います。

     

     

    皆さんもハリウッドを訪れた際には、ぜひ早川雪州さんの星を探してみてくださいね!

     


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